「資本主義と中核派について」 ゆるふわ公開日記 その4

「資本主義と中核派について」 ゆるふわ公開日記 その4

毎日投稿頑張ろうとか思っても自分の性格とこれまでの実績を顧みるとどうせ三日坊主になるのはもう知っているのでノルマを課さずに自分のペースでゆるゆる更新していきます。

きょうはNさんが原付の鍵をメットインの中に入れて閉めてしまったので助けてほしい(メットインを開けるためには原付の鍵が必要)とかいうよくわからない呼び出しを食らい軽トラで比叡平まで出かけて積んで帰ってきた。そんなことある?あと四川の激辛刀削麺を食べた。からかった。

本題に入ろう。とりあえず資本主義はクソである。基本的に資本家が労働者を搾取することのできる可能性が存在している以上望ましいものではない。別に資本論とかちゃんと読んだわけではないので詳しい説明はほかの人に譲るが要するに資本主義は暴力的なのでクソなのである。

ここまでは中核派の主張の一部でもあるし完全に同意している。中核派は「資本主義はクソ」→「じゃあ資本主義を暴力革命でぶっ潰そうぜ」という主張をしているようだ(間違ってたらごめんなさい)。しかしこの主張に私が同意することはどうしてもできない。

なぜならば日本で革命が成功する確率は現状0に等しいと考えているからである。60年代に加熱した学生運動が下火になって以降、メディアと政府が内ゲバだのなんだので「運動する奴=やばい奴」のレッテルを張ることに成功してしまったのだ。非権力側の当然の権利であるデモやストライキなどを大衆が冷笑する構図ができてしまっている。この結果運動が大衆の支持を得ることのハードルが根本的にかなり高くなってしまい、今の日本で暴力による革命の実現はかなりのコストと労力がかかるのが現状であると分析している。国民の運動に対する牙はもうすでにもがれてしまっているのだ。新しい牙が生え変わるまでにはかなり時間と手間がかかるだろう。(完全に個人の思想だが今の政権のひどさに対して健全な民主主義国家の国民なら確実にクーデターか革命みたいなものが起こっているはずである。しかし起こっていないというのはこの論を裏付けているだろう。たぶん。)

この話をするときに毎回引き合いに出すのがおとなり韓国である。80年代に民主化を成し遂げたのは国民の民主化運動が実ったからという実績があるし、民主化した後も政権を握った人間が基盤を固めるために「運動=えらい」を認めている風潮があるような感じがするのでそういった運動が熱を帯びる可能性は日本に比べてはるかに高いと思われる。実際光州事件(5.18民主化運動)に関する記録物なんかは世界記憶遺産に認定されており、現地には民主化前の政権の悪政を伝える立派な博物館やモニュメントなどが多数存在している。実際私も現地に足を運んだことがあるが、やはり政治運動が比較的大衆に支持される土壌が形成されていると感じた。

要するに「資本主義がクソなのは完全に同意するけど暴力革命は現状現実的ではないよね」ということである。こんなこと言うと日和見主義者だと謗られそうな気もするが。しかし私は暴力革命に対する対案を2つほど持っている。基本的には資本主義の枠組みの中で何とか抵抗しようというのが私の考えである。

一つ目は自分が労働者を搾取しない資本家になる方法である。そこで得た資金で虐げられている人間を助ける生き方をすることは資本主義に対するささやかな抵抗となるのではないだろうか。しかし一度資本や権力を握ってしまうと自分の欲望に耐えきれなくなって暴力的な資本家や権力者となり下がってしまう可能性も否定はできないが。

もう一つは資本主義からのゆるやかな脱却である。要するに土地の安い田舎で自給自足に近しい共同体を形成してゆるゆると暮らしていこうということである。場所さえ選ばなければせいぜい月5万円ほどで衣食住インターネット年金社会保険料までを保障できる。毎月5万円分だけを労働力として提供すればいいのである。資本主義への加担を極力減らすのである。完全に貨幣の呪縛から脱却することは難しくとも一定の距離を置くことはできるのである。確かにそのコミュニティに資本家が目をつけて資本主義の暴力で虐げられるという可能性も否定はできないが、かなりいい線を行っていると感じている。

ただの日記というか雑記に近いようなものなので特にオチはない。文章も理解もガバガバなのでなんか多方面から叩かれそうな気がするけれど叩かれると痛いので叩かないでください。

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