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クマウダ第3号 ~USJ編~1/3
<第2章 命の値段の話>
満を持して、USJ内に突入。
USJの外にいる時点で既に感じていたことが、USJの中ではより凝縮された。
店やアトラクションの前を通り過ぎる度に、スタッフはにこやかな笑顔を作って両手で手を振ってくる。彼らは仕事でやっているのだ、と重々承知していても思わずはにかんでしまう。普段、人からこんな風に手を振ってもらえることなどそうそう無い。
早速、我々一行は名物アトラクションの一つ、「ハリウッド・ドリーム・ザ・ライド」という絶叫系ジェットコースターの列に並んだ。これまたアメリカの権化のような名前だ。待ち時間は確か15分程度だったのだが、そのことに経験者2人は大変驚いていた。通常なら2、3時間は待たねばならないという。私はアトラクション1つのためにそんなに長時間待てる人が大量にいるという事実が信じられなかった。
行列の前の方まで進むと、スタッフのお姉さんからポケットの中の荷物を出すよう指示があったのだが、その指示する感じがとても愛想が良く、旧ソ連の人間がその人の接客を受けたら感激の余り泣いてしまうのではないだろうか、と思われるほどであった。
ちょうど待ち列の上をジェットコースターの経路が通っており、定期的に乗り物が通り過ぎる様子を眺めた。乗っている人々は一様に「キャー」と叫び、バンザイのポーズで我々の上を通り過ぎていった。私は自分が乗った時は、かれらのような平凡な反応をするまい、と決意した。
我々に順番が回ってきた。経験者2人は緊張している様子だったが、私には緊張する理由が分からなかった。ライオンを知らない子ザルはライオンを怖がらないものだが、今思えば私はその子ザルの状態だった。
いざ、発車!
ジェットコースターがタンジェントの大きな傾斜をゆっくり登っていく。頂上に到達、束の間の水平。そして、お決まりの落下。
文にしてみると平凡なものである。
しかし、落下が始まってから私の脳が辿った思考は少々複雑だった。
落下は体感ではほぼ垂直だった。すなわち、自由落下に近い。それだけの加速度と座席の作りによってだろう、自分の体が浮き上がり、腰の前の頼りない安全バー以外の何によっても体が支えられていないことを私は認識した。通常、人間が激しい恐怖を覚えるには十分な条件と言えよう。問題はここからだ。
恐怖が私に「フォード・ピント事件」を思い起こさせてしまった。
…
フォード・ピント事件とはアメリカで起きた、自動車事故に端を発する一連の訴訟を指す。
1970年代、アメリカの大手自動車メーカーの1つであるフォード社は「ピント」という車種を量産していた。当時はアメリカの自動車産業は日本メーカーとの激しい競争の最中にあった時代である。フォード社はピント生産のコストカットを目的として、通常開発に必要な期間である43ヶ月を25ヶ月まで短縮していた。
この車種は構造上、追突事故に対して非常に弱いという欠陥があり、フォード社は開発段階でそれを認識していた(*1)。
そして、当然ながらピントを運転した人が追突事故によって死亡したり、重症を負うという案件が多発し、被害者側はフォード社を訴えた。この訴訟によって、驚愕の事実が判明した。
フォード社はピントに安全対策を施す場合と安全対策を放棄する場合のそれぞれで発生するコストを試算していたのである。その試算とは以下のようなもの(*2)だった。
安全対策を施す場合のコスト;13750万ドル
安全対策によるコストの種類 | 安全対策費用の単価 | ピントの生産数 | コスト |
ガソリンタンク対策費 | 11(ドル/台) | 1250万(台) | 11(ドル/台)×1250万(台)=13750万(ドル) |
計;13750万(ドル) |
安全対策を放棄した場合のコスト;4950万ドル
安全対策放棄によるコストの種類 | 賠償額の単価 | 安全対策放棄による賠償対象(人・車両)の増加分 | コスト |
死者への賠償 | 20万(ドル/人) | 180(人) | 20万(ドル/人)×180(人)=3600万(ドル) |
重傷者への賠償 | 6.7万(ドル/人) | 180(人) | 6.7万(ドル/人)×180(人)=1200万(ドル) |
車両への賠償 | 0.07万(ドル/台) | 2100(台) | 0.07万(ドル/台)×2100(台)=150万(ドル) |
計;4950万(ドル) |
安全対策なしの場合に発生する賠償額の増分の合計よりも、全てのピントに安全対策を施すコストの方が9000万ドル近く高いことが試算で判明したのだ。そして、フォード社は安全対策を放棄してピントを販売したのである。
*1: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%88 参照
*2:
http://www.shippai.org/fkd/cf/CA0000636.html 参照
…
USJも当時のフォードと同じ論理で動きやしないだろうか?いや、資本の増殖を至上命題とするのであれば必ずそう考えるはず。もし、事故によって生じる損害がジェットコースターの安全対策費用より安いとすれば…
果たして、今私が全身を預けているこの安全バーはアテになるのだろうか?
恐怖が倍増した。
もし手を離せば、私はジェットコースターから振り落とされて死に、その時だけビッグニュースとして世間に消費されてすぐに事故は忘れ去られ、いくらかの賠償金で全てを無かったことにされるに違いない。
バンザイなんてとんでもない。座席に掴まらなければ!!
同乗者達が尽くバンザイをしているのとは反対に、私は座席を固く握りしめた。資本主義に殺されないために―
乗り物はコースを一周し、スタート位置に回帰した。乗っていた時間は1分にも満たないのだろうが、その間私は1日分の思索をしたと言えよう。資本主義に殺されてしまうのではないか、という心配は杞憂に終わった。
友人は私に聞いた。
「怖かった?」
私は答えた。
「うん、想像よりずっと怖かったわ。」
<第3章 屈服>
ハリウッド・ドリーム・ザ・ライドの後、我々一行はハリー・ポッターのアトラクションへと向かった。
経験者2人曰く、その日は普段の1割くらいしか人がいないらしい。そもそも、コロナ期間でなければ1日で片手で数えるほどのアトラクションにしか乗れず、今日くらいのサクサク感で回るためには「ユニバーサル・エクスプレス・パス」という10000円近くする券を買って行列を追い越さねばならないという。したがって、今日はとても「お得」な日だということになる。そうやって、USJはブルジョワの快適さのためにプロレタリアートに待ち時間を課すのだな。太いやつめ。
ハリー・ポッターのエリアに入る時、友人の持ってきた衣装を誰かが着よう、ということになった。皆で着まわした結果、私が一番似合っている、という結論が残り3人によって下され、私がその役を担うこととなった。
ハリー・ポッターのエリア、すなわち「ホグワーツ」に配備されたスタッフたちは私の着ている衣装を見るなり、「グリフィンドールへお帰りなさい!」などと言ってニコニコ手を振ってくる。なんともむず痒い。しかし、スタッフから声をかけられ続けているうちに、別に悪い気もしないな、と思うようになってきた。
乗り物に乗るためにお城に入る。ホグワーツ城そのものと言っても良いほど精巧に作られたお城の中がちょうどアトラクションを求める群衆の列を収容する施設となっている。ホグワーツ城の前には映画の通り湖があり、逆さホグワーツ城がきれいに映っている。何でも、どんな気象条件でも湖面が鏡の役割を果たすように、湖には特殊な薬剤が溶かし込まれているらしい。

順路沿いの壁には動く肖像画がいくつも配置されているのだが、その絵のクオリティーがまた凄まじい。絵の中には画面が埋め込まれているのであろうが、ひと目見て全くそうとは感じられず、あくまで絵画中の人物が動いているように見える。
アトラクションの乗り物は城の中を動き回る感じなのだが、最初に乗ったハリウッド・ドリーム・ザ・ライドとは違い、恐怖を呼び起こす類のものではなかった。
こうして、私はハリー・ポッターエリアを存分に楽しんだ。
昼も過ぎ、お腹が空いたので、我々はUSJ内のレストランに入った。
1食1800円。USJ内にはいくつかレストランがあるが、他の所はもっと高い。
そんな暴利があって良いものか。キーマカレーを注文して胃袋にかき込んで見るも、値段に見合っているのか、という疑念を払拭できない。

予想はしていたが、やはりテーマパークというのは施設の中に人を閉じ込め、限界まで搾取をする施設なのだ。
しかし、そんな私に再びUSJ仮想人格は囁いた。
「USJに脳内で抵抗し続けることに何の意味がある?そんな虚しいことは止めて、現実を楽しんじゃえよ。」
確かにそうかもしれない。現に、ハリー・ポッターエリアは楽しかったではないか。私は一体何にそんなに突っ張っているのだろう。資本主義が何だと考えたところで、まるで風車に突撃するドン・キホーテではないか。可能な限り快楽を貪って生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。暴利の昼食も快楽の代償だ。USJも商売なのだから、この程度の利益を取るのも仕方ない。
今振り返れば、この時の私は力尽きて草原に倒れ込んだメロスのようであった。
…
我々はUSJの隅々まで探索した。
楽しい。
個々のアトラクションの説明はもうこれ以上は省くが、どのアトラクションに行ってもそれなりの工夫が施されていて、きっちりと快楽を得られる。
USJのスタッフは皆ニコニコしていて、親切だ。道案内とかを頼んでも「私もちょうどそっちへ行くところだったんです」等と言って同行してくれる。お土産屋さんの中でも、何を買ったら親戚が喜ぶか、といった抽象的な相談にも乗ってくれる。
気付いた頃には日は沈んでいた。USJの閉館時刻が迫っている。もう外に出なくては。
ああ、こんなに心地よい空間から出なければならないのか。
外には現実が待っている。自力で自分の生活を回していかねばならない。
外には現実…?自力で生活?
ではここでは自分の力を使って生きていないということなのか?
私は呆けてはいまいか?
…
岩の裂目からこんこんと清水が湧き出ているのに気付いた。
ふと、ある20世紀の社会学者のことを思い出したのである。
分かったぞ。
USJが資本主義の権化である本質的理由が。
To be continued…