ブヤコフ=マクシモヴィッチの機関紙       クマウダ第3号 ~USJ編~3/3

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<第4章 カイヨワの4類型>

読者の皆さんはロジェ・カイヨワ(Roger Caillois,1913~1978)というフランス出身の社会学者をご存知だろうか?
彼は主著『遊びと人間』(1958)で、人類の遊びを大きく4つの類型に分類した。

◇ ロジェ・カイヨワの4分類 | ゲームデザインエクセレント
カイヨワの遊びの4類型

彼は遊びを「意志↔脱意志」、「ルール↔脱ルール」の2軸で捉え、4つの象限をそれぞれアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリー(模倣)、イリンクス(めまい)と名付けた。図中の遊びの具体例と照らし合わせて、4類型が2×2のマトリクスに対応していることを確認されたし。

さて、では本稿の主題、USJは一体この4つのどれに属するだろうか?

カイヨワの4類型を実際の遊びに当てはめた時、すっぱりと4つのうちのどれかに分類できるかというと、そうではない場合も多い。例えば、麻雀やポーカーは技術的修練の余地がある一方、運にも左右されるため、アゴンとアレアの両方の要素を持つ。
とは言え、ことUSJの場合は核となる類型が1つに絞れると思う。

ずばり、イリンクスだ。

USJのアトラクションではルールに沿って何かをプレイすることは一部のミニゲームを除いて無い。そして、アトラクション内において意志を持って何かを選択したり、判断することも無い。
USJには仮装をして楽しむ、というミミクリー的要素が若干あることは否定しない。しかし、1章で述べた通り、USJで見られるコスプレは既製品が目立ち、私には特に独創性が感じられなかった。私の感覚に従うなら、それはむしろ脱意志的で、イリンクスっぽい遊び方であることになる。

カイヨワの4類型におけるUSJの位置

したがって、イリンクスこそがUSJ分析のキーワードだ。

イリンクスの性質の輪郭を際立たせるためには、他の3類型の考察も不可欠だ。遊びを利用して資本の増殖、さらには搾取構造の構築を成す上でどのような方法が考えられるか、という視点でカイヨワの4類型をそれぞれ考察してみよう。

…………………………

i) アゴン(競争)・ミミクリー(模擬)

まず、意志を必要とする遊びであるアゴン、ミミクリーはそれら自体の構造においてはプレイヤーに課金しにくく、大規模な搾取構造を構築し辛い。なぜなら、これらの遊びにおいては、プレイヤーの感じる楽しさの源泉が自らの動きに依拠しているからだ。つまり、本質的には、かれらは楽しさを誰かから与えられているのではなく、勝手に自分たちで楽しんでいる。必然、アゴン・ミミクリー的遊びにはプレイヤーでない誰かの関与は少ない。

アゴン・ミミクリー的遊びを媒介して資本の増殖をなすためには、大きく分けて以下の4つの方法があるように思える。

①遊びの成立のための必要最小限の道具や環境に課金する(例;ボール、バット、グローブ、審判、野球ができる場所)。
②遊びの質の向上のための追加的な機能として、道具や技能を売る(例;天然のウルトラマリン、将棋教室、ソシャゲの”課金”)。
③遊びが行われている様自体を興行化し、イリンクスとして外部の人間に消費させる(例;プロリーグの設立、ファッションショー)。
④遊びの道具をブランド化して売る(例;本榧の碁盤、有名選手のサイン入りラケット)。

①: この場合はその遊びをするプレイヤー全員を課金対象にすることができる。しかし、プレイヤーは楽しさを買っているのではなく、あくまで楽しさのための手段を買っていることに注意しなければならない。ここで暴利を貪ろうとしても、プレイヤーは遊びの手段の代替物を考慮したり、他の遊びに転換してしまう可能性がままある。この方法で効果的な搾取構造を構築できるか、というと微妙な場合が多いように私には思える。

②: このビジネスは、それ無しでも一応遊びが成立する、という点が重要である。プレイヤーは遊びの質を高めるために課金をするのだ。この「遊びの質」とは、アゴンの場合なら、そのゲームにより強くなる、ミミクリーの場合なら、より自分の思うような表現ができる、といったことである。人間は往々にして遊びの質の向上のために熱中し、金銭を注ぎ込む。そんな人間から金を取るビジネスはいくらでも成立するだろう。
しかし、果たして、②の方法によるビジネスは搾取と言えるのだろうか?私は、搾取であると言えない場合と言える場合があると思う。
例えば、ゲームを上手くプレイする能力を獲得するために課金した場合、そのプレイヤーはある種の財産を得ることとなる。その人は遊びを高いレベルで楽しめるだけでなく、②、③の形式のビジネスに携わって収入を得ることもできるかもしれない。従って、能力を提供するビジネスは搾取的なものではない可能性がある。
一方、ソシャゲにおけるいわゆる”課金”行為は能力習得のための課金とは大きく意味が異なる。確かに、ソシャゲの”課金”はプレイヤーがそのゲームを楽しむために役立ち、遊びの質を向上させることができるかもしれない。しかし、”課金”した後にプレイヤーに何らかの財産が残る事は通常無いだろう。ただ、そのゲームをしている時に快楽を味わって終わり、金を失っているのである。この例の場合、私には資本がプレイヤーを搾取しているように見える。
そして、ソシャゲに”課金”するプレイヤーはおそらく、アゴン・ミミクリーが本来提供してくれる楽しみを求めていない。むしろ、勝利や無双感によって得られる”めまい”、すなわちイリンクス的楽しみをもっぱら求めているのではないか、と私は予想するのである。

③: ①、②とは異なり、課金対象がプレイヤーではなく、そのゲームを外から見ている人である。これはアゴン・ミミクリーを利用して、イリンクスを作り出す方法だと言えよう。遊びを大衆が取り巻き、熱狂している様は例を挙げるまでもなく大量に存在することにきっと納得いただけるだろう。オリンピックやワールドカップなどはまさに、この方法を利用して大衆から搾取を行っている、と言って良いだろう。

④: プレイヤーにとって道具を手段ではなく目的にしてしまう方法だ。ブランド化された道具に対する購買欲求を喚起することは十分可能だろうし、そこに搾取構造も見出すことができるかもしれない。しかし、このビジネスは、ブランド物を持ちたい人が相手であれば、必ずしもその人がプレイヤーである必要は無い。ブランド品を持つことによって得られる社会的ステータスや快楽は、遊びの4類型のいずれの枠組みとも本質的な関係が無いため、この文章においては、これ以上④のビジネスには言及しない。

読者諸君には、②の一種、及び③でイリンクスと搾取が連動していることに注目して欲しい。iii)でこのメカニズムについて詳しく論じようと思う。

ii)アレア(運)

i)で論じた通り、意志を必要とする遊びにおいては、それ自体の構造の中で搾取構造を構築することが難しい。搾取するなら、脱意志的な遊びからである。その点、アレアは搾取するのに格好の遊びだと言える。

アレア的遊びにはギャンブル化しやすい、という重要な性質がある。カジノは通常、アレア的遊びの中に金の流れを付加し、直接的に、あるいは間接的に金を自らの懐へと流し込む機構を巧妙に作りあげている。

しかし、アレアをギャンブル化してプレイヤーを搾取の対象とする時、1つ重大な問題がある。
それは、国家から規制がかかりやすいという点だ。言うまでもないが、日本を始め、ほとんどの国でギャンブルは違法である。仮に国家権力自体が資本主義的搾取構造に加担しているとしても、ギャンブルで破滅した人が続出することによって発生し得る社会不安は避けたいはず。したがって、ギャンブルは基本的に、ラスベガスなどごく限られた地域で厳しい管理のもと行われるもの、国営・公営のもの、秘密裏のもののどれかしかない。また、ギャンブルのプレイヤーになる心理的ハードルは一般に高い。

こういった事情のため、アレアを利用した搾取構造の構築も一筋縄ではいかない。

iii)イリンクス(めまい)

ここで、イリンクスの出番である。
イリンクスでは、日常的に我々を支配している知覚や理性を一時的に錯乱させて、”めまい”を楽しんでいる。

イリンクス的遊びの快楽の強さはめまいの感覚の増加、つまり刺激の強さにともない単調増加すると言えそうだ。人は一度経験した刺激には程なくして慣れるものだから、めまいによる快楽を追い求めるならば、より強い刺激を求めることになる。酷い場合は中毒に陥るだろう。しかし、次々とモノを消費することを是とする資本主義の論理とイリンクスの中毒性は相性が良い。

イリンクスはアレアと違い、ルールが無い分、運要素も排除可能だ。また、イリンクスを楽しむためにはアゴンやミミクリーを高いレベルで楽しむために必要となるような技術的修練を必ずしも必要としない(スキーなどは例外)。したがって、イリンクスでは老若男女、IQや努力できるかどうかなどに関係なく、全員が確実に楽しむことができる可能性を秘めている。

イリンクスは遊びの性質に対する法的な縛りが無い場合も多く(麻薬は例外だが)、その点で規制の厳しいギャンブルとは大きく異なる。
イリンクスを上手く使えば、合法的にプレイヤーを半ば中毒状態に陥れて、金を吸い取るだけ吸い取る”夢”のドル箱を作ることが可能なのだ。

…………………………

プロローグで、私はUSJを”現代資本主義社会における「アヘン」”と呼んだ。

その訳が、ここまで辛抱強く拙文を読んだ読者ならお分かりだろう。

イリンクスの性質を最大限活かした施設がUSJなのだ。

USJにおいて、プレイヤーは何も考える必要が無い。
USJは万策を尽くして偶然性を排し、”運悪く”楽しめない人が出ないように細心の注意を払っている。逆さホグワーツ城がどんな天気の日でも見えるのは、悪天候という悪運による影響をUSJが排しているからに他ならない。
そして、楽しさはUSJによって全て入念に準備されているので、プレイヤーは”意志”を持つこと無くただそれを消費すれば良い。
だからこそ、誰が行っても楽しい”夢”のような施設なのだ。

私はイリンクス的楽しみ、さらにはUSJのあり方を全否定するものではない。我々は時には気晴らしが必要なこともあるし、日常で煮詰まっている人に”めまい”が良い作用をもたらすこともあるかもしれない。

しかし、はっきり言っておこう。

USJに嵌りすぎると、人は呆ける。呆けると、USJの搾取構造にさらに嵌り、訳のわからないうちに金を吸い取られ続けるだろう。

 

<エピローグ>

我々4人はUSJを後にした。私を含む全員が満足感に浸っており、帰り道でもアトラクションを回想して口々に喋っていた。しかし、私は同時に「呆ける!」という語を何度も反芻していた。

4人は各々の住処に向かう分かれ道で順次解散し、私と私同様初めてUSJに行ったもう1人(注:4人のうち2人がUSJ経験者で、私ともう1人が初めてだった。1/3参照。)が残った。

私は、自分の感情が余りにもアンビバレントであることに耐えかね、彼女にUSJの感想を求めつつ、私が感じた「呆ける」感覚のことを正直に語った。

意外なことに、彼女は私の話を聞いて、我が意を得たり、という顔をしていた。そして、彼女は「確かに楽しかったんだけど、USJの手のひらで楽しまされている気がした」という趣旨の感想を述べた。

素晴らしい。私が感じたことの要旨はそういうことだ。彼女とはそれまで2回会ったことがあっただけだったが、思っていたより気が合いそうだ。

さて、もし後日彼女をデートに誘う展開があったとしたら、かつて私にアドバイスをしてくれた友人に聞いてみたい。それでもデートはUSJが良いのだろうか、と。

<完>

参考文献;
https://ameblo.jp/nkcgame/entry-11018434267.html
小川純生 (2001). カイヨワの遊び概念と消費者行動 経営研究所論集, 24, 293-311.


最後に、私にUSJタダ券をくれた友人に対する感謝の意をここに記す。君はやはり神だ。