手話サークルを辞めた話

手話サークルを辞めた話

はじめに

3年前、私は8か月だけ所属していた手話サークルを辞めた。今まで生きていた中で、私が自発的に何かを辞めたのはこれが初めてだった。小学校の頃からずっと惰性で続けていたピアノも、高校生になっても親に辞めたいと言い出せなかった公文も、全然好きではなかった部活も、ついぞ自発的に辞めたりしなかった。そんなふうに何かを辞めることにとことん消極的な人間がなぜ手話サークルを辞めてしまったのか。手話サークルでの経験を詳しく書いて思い返してみた。

また、その経験から私が得たいくつかの教訓と、そこから車椅子ユーザーのJR乗車拒否事件についての意見を述べたのでそちらも読んでいただければ幸いである。

手話サークルを辞めた話

4月

1回生の4月、私はウキウキしながら手話サークルの新歓に向かった。たしか吉田図書館の前が集合場所だった。一つ上の先輩が、口で新歓をしていることを伝えながら、手話でも同じことを表現していた。私は初めて生で手話を見て感動した。こんな風に手話を操れるようになりたいと強く思った。

その先輩とサークルの例会場所に向かう途中、なぜ手話サークルに入ろうと思ったのかを話した。高校生のころ、「少数言語としての手話」という本を読んだことで手話に興味を持ったこと、「聲の形」が好きであることなどを話したと思う。どちらのことも先輩は知っていて、とても楽しく話すことができて嬉しかった。また、「聲の形」のことは手話サークル内でも何度か話をした。当時の手話サークル内でも流行っており、私と同年代の人や、一つ上の世代の人の中には「聲の形」の映画を見たり、漫画を読んだことがきっかけで手話サークルに入った人が何人もいて、素晴らしい作品が持つ影響力の大きさを実感した。

サークルの例会は簡単な手話の単語を覚えることから始まった。”京都”、”大学”、”手話”などの今でも覚えている数少ない手話単語たちは、大体この時期に覚えたものだ。まだ手話についてまったく知らない一回生たちを、先輩方はとても優しく導いてくれていたことが印象に残っている。サークル内での雑談も手話と口で話すものを織り交ぜていてくれて、その動きと話の内容を合わせて、どんな単語を表す手話なのかと考えたりしていた。

この時期はまだ、手話サークルに参加することを楽しく思っていた。初めて学ぶ手話という言語に苦戦しつつも、優しい先輩に囲まれてその暖かな雰囲気のなかに混ざろうと努力できていた。事情が変わってくるのは、五月以降のことだった。

5月から梅雨にかけて

サークルに参加して一か月くらい経つと、例会の内容も少しづつ高度なものに変わっていった。これまでで覚えた単語をつないで簡単な文を作ったり、与えられたお題を手話で説明してみたりと、段々と実際に手話で”話す”練習が増えてきたのだ。そして私は少しずつ苦しくなっていた。まだ満足に話せない言葉を使おうとすることは、単に難しいというだけでなく、精神的な苦痛を伴うものだ。自分の伝えたいことをうまく表現することができなくて、歯痒さや恥ずかしさに襲われた。その不甲斐なさ、居場所のなさから、私は思わずあたりを見回した。私の他にも同じように困っている同回生がいるのではないかと思って。しかし、そこにいたのは手話で楽しげに話している一回生だけだった。彼らの成長は著しく、多少カタコトだが手話を使って自分自身を表現し、まだ知らない単語であっても指文字などで相手に伝えることができていた。私だけが完全に取り残されていたのだった。

ある日の例会前、すっかり驚いたことがある。声を出して話をしているのが私だけだったのだ。正確には私の話し相手をしてくれていた人が私と話す時だけ声を出していた。上回生たちは皆流暢に手話を操り、同回生でさえも、学んだばかりの手話を使ってお互いに勉強のためと声を出さず指文字と手話で話していた。後から聞いた話だが、僕以外の同回生は家でも手話の勉強をしていたそうである。とても静かで楽しげなサークル場所で、私一人だけ声を出して話すことにもう耐えられなくなっていた。

この頃、例会終わりに食堂までみんなで移動する時間だけが私の救いだった。例会の後外はすっかり暗くなっており、また移動する際に自転車を手で押さなければならなかったために、手話ではなく口で話す必要があったからだ。私はこの時だけ会話に参加することができていた。そうでない時、私は会話することができなくなっていた。きっと話しかければサークルの人は答えてくれただろう。楽しげに話している手を止めて声を出してくれただろうし、もし下手な手話を使って話しても優しく対応してくれていたはずだ。しかし、そうはできなかった。恥ずかしくて居た堪れなかった。そして私は生まれて初めて”障害者”になった。話すにも聞くにも誰かの助けが必要だった。あの場では手話ができないことこそが障害だったのだ。

このような調子で5月はまだなんとかという感じだったが、梅雨の頃にはもうついてことが難しくなっていた。そして私は手話サークルに通わなくなった。

NFに向けて

8月頃、しばらくサークルに通っていなかった私に連絡がきた。いや、その直前に夏合宿があり何故かそれには参加したから連絡が来たのだったか。どうにも記憶が怪しい。まあ何はともあれ、NFで手話サークルが披露する催し物の練習をする必要があるということだった。どこまでいっても受動的な私は、来いと言われて行かないという選択肢を選ぶことができなかった。そして練習の日々が始まった。

催し物というのは、歌に合わせて手話を披露するというものだった。確か手話歌という名前で呼ばれていたような気がする。サークル内でいくつかのグループに分かれてそれぞれ練習し、NFにその成果を披露する手筈になっていた。数人の優秀な同期とともに私はSEKAI NO OWARIのRPGの手話歌を練習することになった。

経済学部の建物の地下が練習場所だった。週2回ほどそこに集まって振り付けを考えたり練習したりした。私は見様見真似でなんとか他の人がやっているのを真似してみたがどうにもぎこちなく、それが堪らなく恥ずかしかった。またお互いに振り付けを見せ合って指摘し合うという練習もしていたが、これが一番こたえたように思う。私が何かを指摘される分には全く問題なかったが、いざ自分が人に指摘する段になって、私より格段に手話が上手い同期に対し何を言って良いか全く分からなかったからだ。毎度毎度しどろもどろになりながら何とか当たり障りのないことを言って済ましていた。

そんな調子で練習をやり過ごしていたら、とうとう本番の日が訪れた。結局、自分の出番自体はなんの問題もなく終わった。ただ本番の日はひどい寝不足で、騒がしいNFの会場の何もかもが嫌になり、サークルの打ち上げへの参加を断って帰った後、サークルの会長に手話サークルをやめる旨の連絡をした。多分、他の同期がいつの間にか他の手話歌も練習していて、楽しそうに本番披露していたことも、やめた理由の一つだったと思う。私はそのことに強い劣等感を感じたのだった。

いくつかの教訓

ここからやっと本題に入る。できるだけ私の経験を主観的に詳しく書いたので、私の主張したいことから外れる点がいくつかあった。それは、私が臆病で人とコミュニケーションを取ることに手話とは関係なく幾らか引け目を感じていることと、人と自分を比べて嫉妬や劣等感を感じやすいということである。しかしそれらを捨象して私が手話サークルでの経験から得れた教訓についてまとめたいと思う。

私が得た教訓は2つある。一つは、いかに障害というものが関係的な概念であるかということだ。これはよく言われていることだと思うが、多くの障害が社会との関係によって生じているとする考え方が存在する。これを「障害の社会モデル」というらしい。手話サークルでの経験は、そのことを私に強く実感させた。私が手話でなく声を使って話している間、私は全くもって障害を感じることはなかった。周りの人も自分が言っていることを簡単に理解してくれるし、私にわかる言葉で即座に反応をくれる。当然のように会話が声で行われ、そこで苦労する人の存在を考えることなどなかった。しかし、手話を使って会話しなければいけなくなったとき、私のコミニケーションには大きく制限がついた。人の助けなしに得られる情報が格段に減ったし、そもそも会話に参加すること自体に大きなハードルが生まれた。耳の聞こえない方がそういった苦労を日常的に感じているのだと想定してみると、声で会話することを”正常”だとして押し付けてくる社会こそが障害を生み出しているのだという考え方がとてもしっくりくるようになった。たかがマジョリティであるというだけで、そうでない人を差別し続ける社会はひどく暴力的なのだと身をもって知った。

二つ目の教訓は、社会の中で常に劣位に置かれることの辛さである。ここでの社会は、コミュニティと言い換えても良いかもしれない。人間関係の中で、常にサポートが必要な人間だと思われることは辛いと実感した。サポートがなければ一人前になれない、周りの助けがない素の状態では半人前であると言われ続けているような気持ちになる。実際にサポートが必要だと思われていたかどうかは定かではないのだが、私自身はそのように思っていたし、自分のことをそのような人間だと自覚させられ続ける場所にいるのは本当に辛い経験だった。私の場合は、そのコミュニティはサークルであったために辞めればなんとかなる状況だったが、もし社会がその辛さを強要し続けるのだとしたら、その苦しみはどれほどなのだろうか。苦しみから逃れようとした時に、極端な手段を取る以外に方法がない立場に立たされる人のことを想像すると本当に胸が痛い。

JR乗車拒否事件について

このような教訓から、ある車椅子ユーザーがJRで乗車拒否された件について意見を述べたい。この事件もまさしく障害が社会的な関係から発生していることを示唆する例だったと思う。つまり、JRのスタッフがどの駅でも乗降車に対応できるのであれば車椅子ユーザーの方でも移動がもっと自由にできる、逆にそういったサポートがないために移動に制限がかかってしまうということだ。また、そういったサポートが得られず社会的に不利な立場に立たされ続ける辛さの話でもあるとも読み取れる。それは、社会に対し要請をしなければその他多くの人と同じ土俵に立つことすらできない状態にさせられ続けるということだ。そのため、この件についてブログの筆者である伊是名さんが抗議してることについて、社会運動の側面を除いても正当性があると感じた。もし全ての人が平等に尊重されるのだとしたら、車椅子に乗っているというだけで乗車拒否されることは明らかに問題があるのだ。どんな人であっても同じように移動しその他権利を行使するのが当然だ。特に障害を理由にそのような扱いを受けられない人が強くそういった権利を主張することに正当性があるのだと、自分の経験から主張したい。単に障害があるというだけではない、多くの人には理解されない辛さを社会から受けているからこそ、そうであるべきではないと主張するのだ。そのことは当然だし正当だと私は主張する。

しかし、そういった対応をするための余裕が今社会にはないのだろうとこの件に対する反応を見て感じた。「そんなことをする余裕がJRにはない」「係員に対応するよう訴えても無駄」という反応に対して、自分の置かれている理不尽な境遇を正当化しようとしているだけなのではないかと思うのだ。一つ目の反応に対しては車椅子ユーザーの人が降りたい駅まで同行するぐらいの人的余裕がないとは思えないし、二つ目の反応についても係員に言って無駄であったとしてもその後社会運動化できればその後改善の可能性はあるだろう。だから、ここで取り上げたいのはJRの労働力的な余裕ではなく、社会全体における心の余裕のなさだ。

問題としたいのは、こういった反応をする人がおそらくはJRが特別な対応をしたとしてもなにも被害を被らないということだ。JRが車椅子ユーザー向けの対応をしたとて何も変わらない日常を送る人たちがわざわざこういった反応をする裏には、ある種の心理的な防衛機構の発動があるのではないかと思う。それは、自分がつらい思いをしているにもかかわらず車椅子にのっている人間だけ特別に取り計らってもらっているという思いからくる嫉妬であったり、あるいは社会から受ける理不尽な苦痛(ここでは単に働いても豊かにならないという程度のレベルの苦痛も含まれる)を正当化するために、社会規範を乱そうとしているように見える人に対して反発心を持ってしまうのではないだろうかと思うのだ。

だから、結論としては社会を変えなくては少数者の苦しみは取り除けない。また多数派の苦しみであっても、それは同じように社会構造に由来するものであり、社会の変革が必要なのだと感じる。苦しいときにより弱い人間や、規範を(それが自分自身を苦しめているものであったとして)乱す人間に反発を感じることは理解できるが、それが悲しみしか生まないのだといろんな人に知ってもらいたい。それが私が手話サークルでの経験に基づくJR乗車拒否事件についての総括である。

さいごに

最後に、この記事の中で何度か筆者に対して”障害者”という言葉を使ったが、このことについて違和感を持つ人がいる(現に私自身がそうである)かもしれないので弁明をしておきたい。私は五体満足で健康、五感についても一般的な感覚を持っており経済的にも恵まれ将来有望な大学生であるが、そのような人間が自分のことを障害者だというのはどこか間違っているように感じられるかもしれない。ただ上で述べたように、障害が関係的である考えから私のような人間に対しても”障害者”という形容を用いた。このことについて、もしくはそのほかのことについて意見があれば是非ともコメントしてほしい。