人生美味しいところで切っておいた方が美しい。物語性のあるものは全てそうだろう。老衰して死ぬのも、追い込まれて切るのも美しさがない。
しかし人生の美味8割を吸った/吸う機会を逃したと分かっていても残りの2割も吸ってみたいという欲求はあるわけである。
しかも大学を出るまでの人生がなんで美味しいのかって言ったら生活にかかる費用の全てを免除されて何かを期待して誰かに肩代わりされているからであって、これは誰かに何らかの形で返さなければ不誠実というものである。別に死んだ後に返済義務が残るわけではないので逃げ得ではあるのだが、不誠実な生き方をしたくはないという気持ちはある。
切った方が美しいと分かっている人生なのに、残りの2割の期待を持っている将来が今の人生と連続してあることが許せない。
私がヨルシカ好きであることは兼ねてより公言していることであるが、これには音楽的な話を除いて主に2つの要因があると思っていて、1つはn-bunaのどうしようもない劣等感と、もう1つはsuisの人生観である。どちらについても大変おこがましくも親近感を抱きつつ二人とも私が敵わない人間であると思っているので楽しめているのだと思う。
詳しくはリンク先を参照されたいが、まあ私といってることはほとんど同じで、基本的に20歳以降の人生は余生で、それまでの美味しかった人生を回顧しながらその美味しかった人生を泥水で薄めていくしかないのだ。
しかし、かといって、先述の通り、そこで人生を切る方が美しいと分かっていても切れないのが人生であり、そこにスーパーソリューション?を与えたのがsuisであった。実際に切れないのであれば自分の中で切ればよい。ある時点で自分の人格を終わりにして新しい人生を始めるという考えは非常に革新的である。
その模倣をしようとしたのが昨年度のアドカレの赤井川白瀬であったが、これは全くの失敗であった。そもそも自分の中で人格の切断に失敗しているし。
やはり、suisになるためには人格をその時点で切れると確信できる劇的なイベントが、かつその時点で自覚できる必要があるのだと思う。
私の場合は何だろう。
南極?
しかしよりもいでもなければある程度ステップを踏んでいくものなのでどこかの時点において覚悟を決める必要があるということである。
suisになりたい。