腰が、痛い───
1年ほど前から慢性的な腰痛に悩まされるようになった。
20代というのは若くて健康というのが一般の認識だが、破滅的で厭世的で他責的で冷笑的な大学生活は身体に不可逆な適応をもたらす。外に出ず暗い部屋で液晶を見つめて過ごすため、目は吊り上がり、口は冷笑の形に固定される。世の中を斜(はす)に見るあまり、背骨もいつしか湾曲していた。
これにとうとう自分の誠実な脊椎が限界を迎えたということらしい。
しかもこの腰痛、「座ると痛い」というもので学生の生活とはすこぶる相性が悪い。
講義を受けるためには、座らなければならない。
課題をやるためには、座らなければならない。
ゼミに出るためには、座らなければならない。
本を読むためには、座らなければならない。
大学で生きるためには、座らなければならない───
大学生活は「座る」ことをしなければ始まらない。なんともままらならい。
私は今日の大学の「椅子中心主義(イスノセントリズム)」に苦しめられることになった。
しかし「座る」ことばかりの世界にもグラデーションは存在する。
「座らなくてはならない」「場合によっては座らなくてもよい」「座るかどうかは自分次第」という具合に。
これに気づいてからは少し生きるのが楽になった。
講義やゼミは教員に事情を話せば、他の受講生の迷惑にならない範囲で「場合によっては座らなくても」よくなる。(中高年層の教員は腰痛持ちが多いので、事情を話せばわりあい親身に聞いてくれる)
課題や読書も、バーカウンターぐらいの高さの机であればわざわざ座らなくても立ったまま作業できることに気づいた。
絶対座らなくてはいけない授業は、「できる限り行かないようにする」で対応できる。
(これくらいの高さの机なら立ちながら作業できる)
そうやって生活の中の「座る」を嗅ぎ分けていくうちに、世の中の「座る/座らない」に敏感になってきた。
たとえば
風呂は「座る」/シャワーは「座らない」
映画館は「座る」/自宅での配信視聴は自由な姿勢をとれるので「座らない」
外食は「座る」/自宅での食事は立って食べればいいので「座らない」
自動車は「座る」/徒歩は「座らない」
会議は「座る」/実働やタスク担当は「座らない」
など。
つまり「座る/座らない」の二進法、「バイナリ椅子(いす)」である。
こういうことに気づいてから、自分は「座る」ことを避け、「座らない」生活を送るようになった。
映画館に行かなくなり、移動は徒歩が基本になり、家にいることが多くなった。
腰痛になるとできることは少なくなる。
まず活発な運動はしんどい。スポーツサークルにはそもそも入ってないが、これは難しくなった。
あと重いものを持ったり運んだりするのは絶対に避けたい。考えるだけでも嫌だ。
それと長時間同じ姿勢はちょっとしんどい。就職はしばらく先の事だが、事務などのデスクワークや受付といった業務での就労はもはや視野に入っていない。友達が「楽でいいバイト」といっていたホテルフロント(座ってるだけ)とかも正直こちらからお断り願いたい。
腰痛持ちになってから、自分の人生は少し変わった気がする。
『秒速5センチメートル』という映画を見た。
新海誠の2007年の作品だ。
かれの作品と言えば緻密に書き込まれた背景と生活のディティールが特徴的だ。
(秒速5センチメートルHP(https://www.cwfilms.jp/5cm/gallery/3.html )フォトギャラリーより引用)
少年少女のせつなくなるような若さにあふれた感情や葛藤が、丁寧に描かれた彩度の高い背景の前であふれだす。とくに第3話の終盤では山崎まさよしの「One more time, One more chance」に合わせて、そうした風景のカットが印象的に用いられている。
しかし自分はこれをけっこうひきつった顔で見ていた。
「自分の人生で世界がそんな風に見えたことはないが?」
という気持ちで。
新海誠の作品が描く世界はものすごくきれいで美しいと思う。
しかしそのディティールは、色彩は、イマジネーションの産物であるがゆえに、容易に現実のリアリティを追い越してしまう。
世界がそのように輝いて、美しく見えたことのない自分にとって、その映画はすごくキラキラしていたが、自分の網膜には永遠に映ることのない、その風景を絶対に生きられない、という悟りも同時に味わうことになる。
腰痛持ちになって、できることが少なくなって、自分が「生きられる範囲」の輪郭に触れたような気がした。その内部にいるしかない状況において、外部の色彩は時として残酷だ。
そこで思ったのだ
「世界とは、生きられるようでしかないのではないか」
生きられる範囲の世界を生きるしかないなかで、それより外の範囲ってなんなのだろう。
座る/座らないに限らず、新海誠映画のあの綺麗な世界を風景を現実に味わうことができないことをどう考えたらよいのだろうか。なんだか、そういう気になった。
しかしとりあえず、腰痛と共に、終わりなき日常を生きる
そういうことなのだろうか