ブヤコフ=マクシモヴィッチの機関紙       クマウダ第3号 ~USJ編~1/3

ブヤコフ=マクシモヴィッチの機関紙       クマウダ第3号 ~USJ編~1/3

2020年3月某日

タヴァーリシチ諸君、ドーブルイ・デェニ。
クマウダ第2号東国編がプロレタリアート、及び学生から支持を得ることができ、私は嬉しく思っている。読者は私に共産趣味道を邁進する気力を起こさせてくれる存在であるため、この記事を読んだ人は全員強制的にタヴァーリシチ、すなわち同志となる。

近況としてこの記事の読者にお伝えしたいのだが、私は現在、2人の同志と共に亀岡市内にダーチャを作成しており、近日中に公開予定である。ダーチャが何か知らない人にダーチャを知ってもらうにはシベリア送りが一番手っ取り早いのだが、そんなことをすると民衆が私から離反しそうなので次号以降のクマウダで説明しようと思う。とにかく、現在我々はダーチャ居住・利用希望者を募集しているので、twitterなり何なりで声をかけてもらえると嬉しい。

本題に入ろう。
先日、私は齢25にして初めてユニバーサル・スタディオ・ジャパン、いわゆるUSJに行ってきた。私は東京のディズニーランドやディズニーシーにも未だに行ったことがなく、テーマパークに行くこと自体初めてだったと言って良い。今回のクマウダはその経験を基に書いた。

そして、共産的観点に立てば、USJは資本主義の権化と言わざるを得ず、最終的には打倒されなければならないということを明らかにしたい。

<プロローグ>

USJ―

なんとアメリカンな響きだろう。

幼い頃から、私はUSJという単語を見聞きする度に、その略字から「United States of Japan」を想起し、それが一体どんな合衆国なのだろうか、という荒唐無稽な妄想をすることを楽しんでいた。私は関西育ちということもあり、USJのことを話してくる同年代はしばしばいた。しかし、その人の話を聞くよりも、「日本合衆国」の妄想をする方が遥かに楽しかった。
結果、私はUSJについてもそれが大阪府内にあるテーマパーク型遊園地だ、ということ以上の情報をほとんど得ることなく大学生になってしまった。

USJに今まで私が行かなかったことにさしたるドグマ的な理由はない。ただ、遊園地のような場所にもユニバーサル・スタジオ作品にも大した興味を持つことなく今まで育ってきたから行かなかっただけである。USJに経験として行ってみるのはやぶさかではなかったのだが、気軽に行くにはあまりにも入場料がブルジョワ価格である。
恋人や意中の人がいた時など、友人からUSJにデートに行くことを勧められたこともあった。しかし、私はむしろデートで大文字山に登ったり、植物園でじっくり植物を観察する方を好んだ。私の趣味は、いずれもプロレタリアート的質素さに満ちたものばかりで、USJの如き金のかかるものとはおよそ縁が無かった。私のそういう性質が恋愛において破局を生む遠因となっていた可能性は無きにしもあらずであるが。

そんな私が今回USJに行く気が起きた理由は単純である。
友人がどうやってかUSJのタダ券を4枚手に入れることに成功し、そのうちの1枚を私を招待するために使ってくれたのだ。
私はそんな友人を思わず「神!」と言って崇めた。この発言をした時、私は不覚にも、マルクスの有名な警句「宗教はアヘンである」を忘れていた。しかし、その日の体験を通じて、USJが現代資本主義社会における「アヘン」であることを私は思い知ることとなるのである。

<第1章 アメリカのイデア>

当日、私は大阪駅で他の参加者と合流し、4人でUSJへと向かった。
我々4人のうち、2人はUSJに何度も行ったことのある人間で、どの電車に乗ってどこで乗り換えるべきか、といったことを全て把握していた。私はかれらに付いて行くだけで良かった。この時、私は初めてJRに「ユニバーサルシティ」という名前の駅があることを知った。

駅舎を出ると、そこは既に異様な場所であった。まだUSJの外なのに、ディズニーだかハリウッドだかの映画やアニメーションの中に出てきそうな建物が立ち並んでいる。日本人がイメージするアメリカがここに具現化されているように思えた。日本人の考えるアメリカのイデアがそれだ、という言い方もできるかもしれない。

ユニバーサルシティ駅前

そして、次に目を引くのが歩いている人々の格好である。何かのコスプレをしている人、かぶりものをしている人、人形を抱えている人がちらほらいる。それも、ウサギの耳など、子供っぽいアイテムを大人のグループでさえ身につけて平然と歩いていたりするのである。以下、本文ではUSJ製品を身に付けてユニバーサルシティ・USJ内を歩く人を広義の「コスプレイヤー」と呼ぶことにする。

ユニバーサルシティを闊歩する「コスプレイヤー」たち

「かれらには羞恥心が無いのだろうか?」

私はこの疑問をタダ券をくれた友人に問うた。
彼は答えた。

「USJはそういう場所だから」

それを聞いて私は「なるほど、哀れなプロレタリアートはストレスの発散においても資本の手から逃れられないのか」という文言を口にしかけたが、辛うじて飲み込んだ。

童心に帰って自分の思うままに振る舞うこと自体は悪いことではない。我々は子供の頃に純粋に楽しめていたことを、大人になるにつれて周囲の目が気になるようになってできなくなるものである。そういう意味では、普段しない格好をするのは世間一般の常識からの解放であり、肯定的に受け止められて然るべきである。
しかし、私がユニバーサルシティを行き交う「コスプレイヤー」に抱いた拭い難い否定的感情の原因はそこには無い。
私は画一的なコスプレグッズを集団行動的に身に付ける「コスプレイヤー」の様子から、USJが標榜している「自由」「子供の夢」なる属性とは正反対なもの、つまり強烈な制御を感じ取った。USJという仮想人格があるとしたら、そいつはおそらく狡猾な笑みを浮かべてこう言っているに違いないのである。

「お前らはUSJでだけはハメを外しても良いぞ。もっとも、ハメ外しは俺の想定する範囲内でなければならないが。勿論それがタダでできると思うなよ。我々が用意したグッズを買ってもらおう。何、買わない?君はそんなのだから駄目なんだ。もっとしっかりと楽しまないでどうする?」

「コスプレイヤー」達はこのUSJ仮想人格にまんまと踊らされているように見えた。

「ハリーポッターのコスプレ、俺も一式持ってきたよ。中でマックスも着ていいよ。」

友人はそう続けた。その発言は、はっとするものだった。周囲の人間を半ば見下したような思考をしていた私だが、私も周囲の人間とちっとも変わらない行動をすることになるのだ。

USJの入り口に近付くと、列に並ぶ人だかりが見えてきた。その奥には駅からの道中以上にアメリカ的な建物の影。「コスプレイヤー」の割合も増えている。

彼の言うことは正しいようだ。USJは「そういう」場所なのだ。

To be continued…

続き↓
クマウダ第3号 ~USJ編~2/3